御理解の後途切れ 音声元テープ4月分がない

昭和44年04月04日 朝の御理解



 御理解 第52節
 「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。」

 (途中から)
 けれども金のない人にして見れば一万円は大金ですから、矢張り一万円にぎった落としたと言った様な事になったら驚きますよね。ですからやっぱりあの大きくならなければいけません。こちらに唯一人前の力があっただけでは、一対一の時にはまあいいとして、こちらが一、向こうが二と言う時にはもう驚かななりません。
 向こうが三人五人掛って来ても、こちらが十人力持っておれば驚くこたあいりません様に、先ずは何と言っても信心する者は驚いてはならんとこう言うておられるんですが、驚かんで済む為にはどうしても力を頂かなきゃならん。同時にこちらが大きくならなければなりません。
 昨夜の御理解に光と言う事を頂きました、あの人はあれだけ沢山の中にチョット光ってるなと、まあチョット図抜けた人をそう申しますね。あの人はチョット光ってると、矢張りこの光る存在と言うものが、そう言う光を願いとしての信心にならなければいけない。 昨夜私し御祈念させて頂いてある方の事お願いさせて貰よりましたら、こう親指と人差し指でこう何かを持っておられる。持っておられるここから一筋の光がパァーッとこう差しているんですね、こう握っている所が握っている所が、芥子粒の様に、小さいもんですから、こう人差し指と親指の間に隠れている訳なんです。けどもそこから微かに一筋のこう光が出ている、光を持っているんだけどその光が芥子粒のように小さいと言う訳です。 素晴らしい事ですねこの光がこうやって光を放つ様になる。ですからこの芥子粒が、胡麻粒ぐらいにもなり大豆大にもなり、とお豆ぐらい大きくなってですよね、例えばこう親指と人差し指で持っとってもこんなにもなれば、こりゃ誰でもその光るものが大きい、なってくればその光りはいよいよ放つ事になり誰が見ても分るのです。
 けども芥子粒程に小さいから是親指と人差し指の中にある訳です、素晴らしい光るものを持っている。ですから是は矢張り大きくならなければです、所謂認められる存在にはならんのです、第一そのそれがどんなにこんなに大きかってもですよ、両方の手で抱えようごとあったちゃ、ただの石ならただの石ですよ。けれどもやっぱりダイヤならダイヤと言う石になりますと、それがね。粟粒のように小さかってもこう光を放ちます。
 けれども親指と人差し指でチョットこうやって握りゃ形隠れてしまうような事でもですね、いけませんからこりゃひとつ大きゆうならにゃいけません。そう言う素晴らしいものを銘々が頂いとっても持っておってもそれが育つと言うか大きゅうならなければいけない。まあ私達の事じゃろうと思うんですけど、私達がそうじゃろうと、まあおかげで少しぐらい光りを持っておってもですね、その光りを認めてもらえてない、だからこう本当に側で見ると少しぐらい光を放っているかも知れない、けどもチョット握られとったらもう分からん。
 人にその存在を見て貰える程しの大きさって言うものがまだ出来ていない、そこでその最後に驚く事はならんぞと、こう大体そのそう言う風な光が光る物内容ですね、光る物が大きくなって来る。そこにはもうおのづと力も備わっておる事でしょうけれども、力もないのに光も小さいのに矢張りですから驚く事はならんぞと、それでもやっぱり足がガタガタふるうごと驚く事がある。
 金光様金光様金光様と言いながらも足はガタガタ震える、これでもやっぱり丙種合格でしたけども、最後に半年余り兵隊に参りましたけれども、何回も言わば死線を越えて参りました。もう今夜はむつかしかろう今日はダメぞと言う時がやっぱし何回かありました。そりゃもうですね口には金光様金光様金光様と唱えとるんです。
 してもう今日皆全滅だなと、けども自分だけは助かるなって言うものが、何故か知らん湧いて来るんです信心て有難いですね、金光様金光様金光様って、それでもひざとひざがガクガク震うてからやまんですよ本当に、けどもやっぱ信心を頂いておると言う事は有難い、そう言う時にももう金光様金光様金光様とこう一生懸命ね、ある時に例えば実戦に何回も何回も参加して度胸が出来ておる、敵の弾の下を潜ってその来ておると言う人達はですね、やっぱ落ち着いています。 
 こっち当たりはもう年はとっとってもそのまだね、鉄砲の弾聞いた事のないそのないのですからビックリします。驚く事はならんぞとこうそこでです、私し共がですねどう言うような事が起こって来ても、貧乏ゆすりもするだんじゃないと言う、矢張り貧乏ゆすりもする事じゃありませんと言った様なですね、驚いてはならんぞと仰るから驚きませんとこっちがですね、頑張る心構えと言うのが必要です。是には私そこから色々分らせられる事がありますけどね。
 もう若先生が10才位の時だったでしょうか、友達と遊びよりましてね、あの時分にその大変危険な遊びが流行っていたんです、もう竹をこうそぎって竹をこっちにポンとこうその何て言うんですかね、竹をこう竹を飛ばす遊びが流行ったんですね。
 その五六人の友達と遊んでおる内にその竹削った竹の釘のようなものがですね、その右だったでしょうか左だったでしょうか目に突き刺さったんですよ、そりゃもう本当に私し御結界まだ御結界に座るようになってまもない頃でしたが、座らせて頂いてその時がですね朝の御祈念を仕えてから何か知らんけど下からモリモリこう湧いて来る元気な心が出るんですよね。
 そしてここ座ってから思う事です、神様どのようなお届けがあっても、どのような事が起こってきても貧乏ゆすりだもする事じゃありませんと、言ったような事を自分の心に一生懸命唱えておるような日でしたその日は、だからここん所の時にですね、本当に矢張り万事心の上にお繰り合わせ頂いとかなならんと思いますね。
 最後にここに言うて御座います、驚いてはならんぞとこう仰せられてありますがね、ですからこちらが力がありゃ驚かんのだけれども、力がないもんだからです驚いてはならんぞと言われ、驚きゃしませんとビックリどのような事でも、驚くだんじゃありませんと言った様なですね、構えがでけとらんとですねやっぱ驚く、ところがその朝はですね神様の本当にお繰り合わせ頂いとったんです、朝からそう言う心がしきりとするんです。
 もうどう言う事が起こってもびんぼうゆすりなどするだんじゃありませんと、どの様な大きなお届けを持って来てもどっこいと、私がここで一遍受けてそしてお届けさして貰える度胸がでけてたんです、その日はでけてたんです。
 そしたらその日そのもう上の方で何かけたたましい、何が起こったんだろか思いよりました、そしたら家内がこう長男を横抱きにこう抱いてから、先生大変な事が起こりました、ち言うてここにやって参りました、見るとですね目がですねこうひっくり返ってしまって出てからこう、白い目がそれがあの竹のそれがですね。
 勢い良くポンと刺さったもんですから、あちらのすぐ上の篠原さんですね今ここに参って来なさる人の姉さんです、がその刺さったもんですからもうビックリして、すぐそこの畑で仕事しておられたご主人にですねチョット来て下さい、ち言うて呼び行って今の篠原さんのご主人がですね、こうやって引き抜きなさったそうです。引き抜いた時に目がこう出て来てる訳です。
 もう真っ白い上にひっくり返って出てしまってる、ここチョイと呼んでもうそれこそ火のつくように泣いてました。家内はもう金光様ち言うてから、横抱きに抱いてからここにやって来とったけんですけんね、よしお願いするぞ、もう私しその事だけでした、もうそれこそびんぼう揺るぎだもする事じゃありません、私しの気持ちの上には。
 こりゃ本当ですよ、こりゃもう本当にそうです、家内が2階にすぐ連れて床をひきそれからものの十分も、泣きよりましたけども、ピタッと泣き止みましたですもん、家内が降りて来ておかげ頂いてから休ませて頂いたと言うんです。サア―近所の子供達の親やらなんやらそれこそビックリ仰天して、兎に角自分達の子供が一緒にやっとっとじゃから。
 どうでんお医者に連れて行ってあげて下さいと、言うてから言うて見えました。で私が皆さんご心配かけるこっちゃない、ご心配しなさらんでもいい、どうぞお引取り下さいと言うてですね、近所の子供達の親達がみな一緒に遊んでいた親たちが見えましたけども、私しが帰しまして恐らくもうなんちゅう無茶な親やろかと、思いなさったに違いありませんよね。
 けれどもそう言う時にですね、もう盲になるならなったちゃよかち言う腹がでけとります、私しが今日ここで思います事は、次ぎの53節に、知ったおかげより知らぬおかげが多いとこう仰るがですね、矢張りあの私し共の未知の世界と言うね、まあだ見たり聞いたりで分かっておってもね、自分自身が体験したおかげでならなければ、もうそれは知らぬおかげと同じ事ですよ。
 こりゃ長男としてこうして、将来ね取次者としてご用頂かして貰う、そん時の事自分でも子供心に憶えておるだろうと思いますけど、ああ言う時でもお父さん驚かなかった、ああ言う時でもさあ医者に行けとは言わなかった、しかもお父さんの信心のおかげで、お取次のおかげで本当に自分も倒れに、すぐ十分ぐらい後で眠ってしまっているもんですから、どげん考えても奇蹟中の奇蹟です。
 それから夕方にはですね、そのひっくり返った目が治まったんです中へ、明くる日はですねもうただ血を飲み込んだ様に、真っ赤と言うだけでそれが段々薄れて晴眼にもどった。嘘の様な話ですけど本当です。そう言う体験を子供ながらも若先生は頂いている。
 又それを実際周囲で見ておった人達もそうです。第一家内がそうなんです、あの時に私しがもし驚いてさあ、どうするかさあはよ医者に連れて行け、と言うとったら、なる程医者の進んだ医学で治療すれば、直っとった事だけは直っとったじゃろばってん、只本当にあん時に盲になると頃ばおかげ頂いたと言う事だけでしょうが、私し思います、もう言うならばです。
 どの様な事が起こって来てもびんぼうゆすりどもするだんじゃないと、言えれるだけの神様を頂いとかなければならんと言う事と、頂いておっても、咄嗟の事ですから、そう言う心の上にねやはりお繰り合わせ、それがどう言う事かと言うとですね、そう言う驚かんで済む心はです、その向こうにそう言うおかげがあるんです。そこん所が言わば知らんおかげである。
 知らぬおかげが分る、一遍そう言うおかげ頂いたからもう後はどんな事が起こって来ても、そりゃ体験としては尊いけれどもではありません、やっぱ日々が新の信心させて頂いておってです、日々大きな大きな信心大きな事が出来て来ても、こちらが大きな信心しよらなければ、それに対処する事が出来ません。
 先ほど申しますように、唯一人前の力では一対一の時は兎も角として、相手が二人になり三人になったら、もう驚かなならん逃げ出さなならん、ですから三人で掛かって来てもこちらが五人力頂いとりゃ心配ないようなもんです。さあ一万円ねいつでしたか、もう十年も前だったでしょうかね、五万円の借金の為に苦渋してから一家五人か六人心中しなさった。 
 そりゃ五万円ちゃ大金は大金じゃろうけれども、けどもならお金を持った人から見ると五万円なんか本当、はした金に違いありません。命までも取らなければたった言うならたった五万円の金で一家中で命を落とす様な事になる。
 為には矢張り自分がなら二十万でも三十万でもお金を持っておって、その中から五万円落としたと言うぐらいならばですよね。そりゃ惜しい事には惜しいでしょうけれども、諦めがつくと言うかもうよかよか、と言う事にもなって来る訳、自分が矢張りその持てる私し、そう言う力を頂いとかなならんと言う事が分ります。
 信心するものは驚いてはならぬ。と仰せられるけれども、驚かなおられん、それこそビックリしたと言う事になる。次ぎの瞬間には生神金光大神様と唱えりゃ心が落ち着く、せめてここん所ぐらいまでは生神金光大神を頂いておきたい。
 天地の親神様の働きを信じれれるおかげを頂いておきたい。是からのちどの様な事が出来てきても少しも驚く事はならんぞと、落ち着いてそれが落ち着いて処置が出来ると言った様な事でなくてね、矢張り信心で頂けるもの神様に只今申します様に、是から先どの様な事が大きな事が起こっても決してびんぼう揺るぎだんするだんじゃない、致しませんと言う様な、ものが私の心の中に、養われて行っておりませんと矢張りビックリ致します。 それが身近であればある程やはり仰天いたしますですね。仰天してもそりゃおかげ頂きましてもです、それはおかげだけ、そこにです、仰天せんで済む心がそう言う時でも、よっしゃお願いするぞと、その時あたしが言えた、そう言う心はです心でなら、その向こうにそれこそ奇跡と思わなければおられない、程しのおかげが受けられる事を実証しておりますね。
 その私のおかげ話しの中から、驚く事はならんぞとそこで、よしどんな事が起こって来ても驚きはしませんと、驚く事はならんぞと仰るから、驚きませんと言うそう言う心構えがですね、でけとるそしてよしそれが起こって来たらです、それによって自分の力を試してもみろう、神様の働きをハッキリ体験もさせて頂こう、私しは今日は大きな信心と言う事を申しますけど。
 大きな信心と言う事の内容はです、矢張り大きな勿論内容を持つ事で御座いますけれども、大きな事が起こって来ても、びんぼうゆすりせんで済む心、今日はそう言う意味の大きな信心と今日は聞いて頂いたと思います、どの様な事が起こって来ても驚かんで済む信心、大きな事が起こって来てもその大きな事より、より大きな私しの信心と言うものがです、その時その時に言うならば、ままよと言う様な心が出る様なおかげが頂きたい。
 それが私、力になるそれがです私は昨日昨夜頂いた、信心によって光を頂いておる芥子粒のような光りがです、そう言う事に直面するそう言う事に出会った時に、大きくなるんじゃないでしょうか。そう言う時にヤア流石にお父さんだな、流石に先生だなとまあ家内が思うたじゃろうとこう思います。言わば認められて来た、
 からし粒の様な言わば光りの基であるその光りがです、まあ大豆大ぐらいに大きくなった、そして様々な事柄を経て、信心の稽古させて頂く所からそれが又段々大豆大から、とお豆大ぐらいに、卵大にと言う様にですね大きくなって行く、そこへ私は周囲に光を放つ事の出来れる信心、おかげ所謂お徳が頂けると思うのです。
 それが決して私し共の日常生活と言うものはです、平穏無事をいかに願っておっても、平穏無事と言う事ばかりでは済まされんのが世の中です現状です。
 だからその様な時にです、私し共が、金光様を唱えさせて、それこそびんぼう揺るぎどもせんで済む心をね、養うて行かなきゃならん、何故かと言うとそう言う心を持ってしないとです、その小さいものが大きく育って行かんのです。
 そう言う都度に私しは信心が育って行くと言うかね、力が育つ大きな言うなら、五色光ぐらいの電気から十色光の光が大きくなって行くようなおかげが、頂けるんですから、そう言うような事柄も又、ね、神愛であると言う事が分かります。
 より育てて下さろうとする働きである事が分かります。信心するものは驚いてはならぬ。是からのちどの様な大きな事が起きて来ても、少しも驚く事はならんぞと、驚く事はならんぞとこう仰せられる、だからそれに応えてどんな事が起こって来ても、驚きはしませんと言うそれに応えるものが、なからなければならんと言う事ですね。
   どうぞ。